名曲解説:ベートーベンのピアノソナタ第23番『熱情』

このページではベートーベンのピアノソナタ第23番『熱情』を解説していきます!

クラーニャ

ピアノソナタ第23番『熱情(アパショナータ)』について学ぼう!

ピアノソナタ第23番『熱情(アパショナータ)』はベートーベンが1804年から1805年(33から34歳)ごろに作曲したピアノソナタです。その名の通り非常に激しい曲調が特徴の曲です。日本ではベートーベンの3大ピアノソナタの一つに数えられています。

この曲が作曲された1804年から1805年は、ベートーベンが「傑作の森」にちょうど突入したころでした。

「傑作の森」は交響曲第3番『英雄』の作曲が始まりとなったのですが、これと同時期にバイオリンソナタ第9番『クロイツェル』や、ピアノソナタ第21番『バルトシュタイン』などの名曲も作曲されました。

そして、それらの曲に続いて作曲されたのが『熱情』です。同時にベートーベン唯一のオペラ『フィデリオ』も作曲されており、まさに「傑作の森」と呼ぶにふさわしい期間といえます。

『熱情』のできにベートーベンはかなり満足していたようで、この曲を完成させたあと、ベートーベンはピアノソナタにしばらく手をつけませんでした。次作の『テレーゼ』が作曲されたのはそれから4年後のことです。

ニャンチーニ教授

「傑作の森」初期で、この期間中最大の傑作ソナタを完成させてしまったのじゃ

ベートーベンが書いた『熱情』の自筆譜は、現在パリ音楽院に所蔵されています。この自筆譜には面白いエピソードがあります。

1806年の秋、ベートーベンは自身の支援者の一人だったカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵の城からウィーンに帰る途中、突如雨に降られてしまいました。

当時ベートーベンは『熱情』の楽譜を携えて移動することが多く、この時も持っていたため、楽譜を雨で濡らしてしまいます。

ベートーベンは、この雨に濡れてしまった楽譜を後日、ピアニストのマリー・ビゴーに見せました。『情熱』はかなり演奏難易度の高い曲ですが、ビゴーは初見で完璧に弾いてしまったそうです。

ベートーベンは感激し、「私がこの曲で表現したかったことはそうではないのですが、続けてください。完全に私の思ったとおりでない方が、より良くなりそうですから。」と言ったと伝えられています。

ベートーベンは『熱情』を出版したのち、この雨に濡れた自筆譜をビゴーにプレゼントしました。『熱情』の完成に貢献してくれたことに対する感謝の気持ちを表したのです。

パリ音楽院にある『熱情』の自筆譜には、現在も雨に濡れてできたシミが残っており、また楽譜を何度も書き直した跡が残っています。

マリー・ビゴーに贈られたピアノソナタ第23番『熱情』の自筆譜

マリー・ビゴーに贈られたピアノソナタ第23番『熱情』の自筆譜

「伏見城の血天井」みたいなエピソードですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

ちょっと違うと思うがのう……

『熱情』という題名、これはベートーベンの他の作品と同じように本人が付けた題名ではありません。

題名が付けられたのはベートーベン死後の1838年、ハンブルクの出版社がピアノ連弾版の出版をした時でした。

本人が付けたわけではないにせよ、この題名は曲の特徴をよくあらわしています。そのため題名が一般に定着し、この名前で呼ばれるようになったのです。

日本では『熱情』とともに、原題の『アパショナータ』で呼ばれることもあります。

ベートーベンの作品についている題名で、ベートーベンが考えたものって少ないんですよね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

そうじゃ。ピアノソナタでいえば『悲愴』と『告別』くらいじゃな

『熱情』を作曲が始まると同時に、後に名曲となる曲の構想が練られていました。それが交響曲の名曲、第5番『運命』です。

『運命』といえば「ジャジャジャジャーン」というメロディーが有名です。この「ジャジャジャジャーン」は「運命の動機」と呼ばれていますが、じつはこの動機、『熱情』にも使われています。

この動機が使われているのは第1楽章。意識しているとわかるので、曲をよく聴いてみると面白いです。

『運命』がこんなところに現れるんですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

「運命の動機」は、『熱情』では控えめにしか登場しないが、本家の『運命』では200回以上登場するからな

『熱情』は予行演習みたいなものだったのじゃろう

『熱情』を作曲時、ベートーベンはバルトシュタイン伯爵(ベートーベンの支援者)から贈られてきたエラール社のピアノを使っていました。じつはこのピアノが『熱情』の完成に大きな影響を与えます。

当時のピアノは出せる音域が狭く、広い音域の曲を作っても再現できませんでした。しかし、エラール社のピアノは音域が広く、それだけ曲中に使う音のバリエーションを増やすことが出来ました。これにより、ダイナミックでより華やかな演奏が可能になります。

『熱情』は当時では考えられないような広い音域を使う曲です。エラール社のピアノの技術革新がベートーベンの創作の幅を広げ、『熱情』作曲のきっかけを作ったのでした。

エラール社のピアノ

エラール社のピアノ

当時の技術革新のスピードはすさまじかったでしょうね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

ピアノの黎明期じゃったからな。今では考えられないことじゃ

エラール社について少し解説します。

エラールは当時最先端のピアノを作っていた会社。クラシックの作曲家たちにたびたび影響を与えました。

わかりやすい解説文があったので引用します。

エラール社(1780–1959)は1780年にセバスチャン・エラールによって創業された、19世紀フランスを代表するピアノ・メーカー。

歴史的な作曲家(ハイドン、ベートーヴェン、リスト、ショパン、メンデルスゾーン、ヴェルディ、ワーグナー、シャブリエ、フォーレ、ラヴェル)がエラールを所有していただけでなく、18世紀には顧客にマリー・アントワネット王妃もいた王宮の楽器職人であった。

パリ音楽院の業者であったこともあり、19世紀後半のパリ音楽院でのレッスンはエラールのピアノで行われ、音楽家、ピアニスト、作曲家達が、その響きによって育成されている。

そして、時代の先端を行くピアニスト(若きリスト、ルービンシュタイン、パデレフスキー)が広告塔となってエラールを演奏会で使用し、その発展を促した。

エラール – 鍵盤楽器辞典(PTNA)

エラール社は第2次世界大戦前まではヨーロッパ最高のピアノメーカーの一つだったのですが、戦後経営難におちいり、ガヴォーという会社と合併し生き残りを図りました。

ですが、それでも会社を支え切れず1959年(1960年?)に工場は閉鎖され、プレイエル社(ショパン御用達のピアノメーカー)と合併。エラールの歴史は途絶えてしまいました。

エラール(Erard)

エラール(Erard)
出典:wikipedia

エラール社はもうないんですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

まぁ、このプレイエル社も後に潰れてしまうのじゃがな