名曲解説:ベートーベンの交響曲第3番『英雄(エロイカ)』

このページではベートーベンの交響曲第3番『英雄(エロイカ)』を解説していきます!

クラーニャ

交響曲第3番『英雄(エロイカ)』について学ぼう!

Beethoven: Symphony no. 3 Eroica – Philippe Herreweghe – Full concert in HD

交響曲第3番『英雄(エロイカ)』はベートーベンが1804年に完成させた交響曲です。『英雄』のほか、イタリア語の原題に由来する『エロイカ』の名で呼ばれることもあります。

この「英雄」という題名。じつは最初から付けられていたものではありません。

ベートーベンが書いた『英雄』の楽譜は現在でも残っているのですが、そこにはある「ヒーロー(英雄)」の名が書かれており、それがペンで消された上で『シンフォニア・エロイカ – ある英雄の思い出のために』と書き直されています。

ベートーベンが書いた『英雄』のタイトル

ベートーベンが書いた『英雄』のタイトル

ニャンチーニ教授

なぜ英雄の名が消されたのか?代わりに書かれた「ある英雄」とは誰なのか?『英雄』の題名をめぐる物語の始まりじゃ

『英雄』の作曲が始まる少し前、フランスで世界史上に残る歴史的な革命が起きていました。一般市民がクーデターを起こし王政を打倒した『フランス革命』です。

ベートーベンはこの革命に深く共感したといわれています。ベートーベンはもともと自由主義者。王政や貴族主義に反対的な立場をとっており、ドイツの時の政権からは政権批判をする危険人物としてブラックリストに載っているほどの人物でした。

そんな彼からしてみれば『フランス革命』は自分の思想を体現した革命に見えたのでしょう。

バスティーユ牢獄襲撃

フランス革命メインイベントの一つ「バスティーユ牢獄襲撃」

そしてこの革命はある歴史的な「ヒーロー」によって沈静化されます。そのヒーローの名はナポレオン・ボナパルト。ナポレオンは当時フランスに占領されて不遇な扱いを受けていたコルシカ島の出身でした。コルシカ島ではナポレオンが生まれる少し前、フランスとの間に「コルシカ独立戦争」が起こっており、この戦争はコルシカ側が負けて終わっています。そんな出自の彼がフランス革命の中で出世し、やがてフランスのヒーローと呼ばれるようになったのです。

ベートーベンは偉業を成し遂げたナポレオンに、憧れや尊敬の念を抱いたようです。

もうお気づきかと思いますが、名前を消されたヒーローとはナポレオンのこと。この曲は作曲が開始されとき、『ボナパルト交響曲』と名前が付けられていました。ベートーベンは三作目となるこの交響曲を、ナポレオンにささげようと作曲を始めたのです。

若きヒーロー ナポレオン・ボナパルト

若きヒーロー
ナポレオン・ボナパルト

えー、でもなんで名前を消してしまったんですか?

クラーニャ

ニャンチーニ教授

それはヒーローになってからのナポレオンの行動に原因があるのじゃ

王政が倒れ、民主主義の国となったフランスを象徴する存在ナポレオン。ナポレオンに感銘し共感していたベートーベンでしたが、彼がとったある行動に幻滅することになります。それがナポレオンのフランス皇帝即位です。

いちおうナポレオンの皇帝即位は国民投票で決まったことであり、民主主義の形式をとったものでありましたが、ベートーベンはこれにひどく幻滅してしまいます。

せっかく王政を打倒してフランス、しいてはヨーロッパに民主主義が芽生えようとしていたところに、今度は帝政が出てきてしまったのです。当然のことでしょう。ナポレオンが皇帝に即位したという知らせを聞いたベートーヴェンは、激怒してこう語ったと伝えられています。

「奴もまた俗物に過ぎなかったか。これから、人々の人権を踏みにじって自分の野心のためだけに奔走し、誰よりも自分が優れていると誇示する暴君になるのだろう」

ベートーベンはこの時『ボナパルト交響曲』と書いてある表紙を破り取ったと、弟子が語ったエピソードには書かれています。ただ、現在も残っているベートーベンが書いたこの楽譜には、破った跡がないため、この部分は脚色とみられています。

『英雄』の表紙にある消されたボナパルトの名前には、こういったエピソードがあったのでした。

玉座のナポレオン1世

玉座のナポレオン1世

ベートーベンはナポレオンが皇位についたことが許せなかったんですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

フランス革命でうまれた民主主義の芽を、ナポレオンが台無しにしてしまったと考えたのじゃな

ナポレオンへささげられる予定だった『英雄』は、これが取りやめになったあと最終的にフランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ侯爵へ贈られることになりました。

ロプコヴィッツ侯爵はハイドンやベートーベンの支援者で、ハイドンからは『ロプコヴィッツ四重奏曲』を、ベートーベンからは交響曲『運命』や『田園』、歌曲『遥かなる恋人に』など、多くの作品を贈られた人物です。

フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ侯爵

フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ侯爵

ベートーベンは『英雄』を候爵にささげる際、この曲の題名を『ボナパルト交響曲』から交響曲『英雄』に変更し、「ある英雄の思い出のために」の一文を書き加えました。

残念なことに、この「ある英雄」が誰を指しているのか現在もわかっていません。一説にはベートーベンの尊敬していて、ナポレオン戦争でも大活躍したプロイセンの王子ルイ・フェルディナントがそうではないかと言われています。彼はすぐれた軍人だったのですが、作曲家でもあり、『英雄』の非公開初演にも立ち会っていました。

また「ある英雄」はナポレオンだという説もあります。この曲の第2楽章には葬送行進曲(葬式で演奏する曲)が使われているため、これをナポレオンに献呈するのは失礼だとして、曲名を変更し贈るのを止めたという説です。

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

ニャンチーニ教授

まあベートーベンがこの曲の題名について何も語っていない以上、真実は永遠に不明なのじゃよ
これからも「ある英雄」探しが続いていくんですね

クラーニャ

フランスの改革者ナポレオンに刺激されたベートーベンは、『英雄』で交響曲の改革をしました。まずは第1楽章から見ていきましょう。

第1楽章『最後が最初に』―――――

通常「ジャン、ジャン」という響きは曲の最後に鳴らされていました。しかし『英雄』では「ジャン、ジャン」という響きは最初に来ています。最後に鳴らされる響きを、曲の冒頭で鳴らすという意表を突く表現が、第1楽章には加えられています。

あー、確かに終わりそうな響きが最初に来てますね

クラーニャ

第2楽章『交響曲の中に葬式の音楽』―――――

第2楽章は「Marcia funebre」と名が付けられています。日本語に訳すと「葬送行進曲」、葬式で遺体を墓地まで搬送するときの行進をモチーフした音楽です。単体の音楽として作曲されていたこの曲を、ベートーベンは初めて交響曲に取り入れました。

一般的な交響曲は第1楽章に激しいメロディーを持ってきて、第2楽章にはゆったりとしたメロディーを置きます。この第2楽章に沈痛なメロディーの葬送行進曲を置いたことは、当時かなり斬新な試みでした。

ニャンチーニ教授

ベートーヴェンはこの曲を作曲したずっと後、失脚したナポレオンが流刑地のセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったそうじゃ。あくまで逸話じゃが。もしこれが本当なら、第2楽章の葬送行進曲はナポレオンの死を予言していたことになるな

第3楽章『葬式から一気に陽気な音楽へ』―――――

第3楽章には「スケルツォ」という音楽が取り入れられています。イタリア語で「冗談」の意味を持つこの曲は、ベートーベンやハイドンが自分の作品に使うようになり有名になりました。

メロディーはいたって陽気で、第2楽章の葬送行進曲とはかなり異なった印象を与えています。この明と暗の対比も斬新なアイディアといえるでしょう。

浮き沈みが激しいですね。第2楽章で死んだナポレオンを喜んでいるのかな?

クラーニャ

ニャンチーニ教授

さすがにそれは考えすぎだとおもうぞ

第4楽章『テーマは斬新なバレエ音楽』―――――

第4楽章にはバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲がテーマとして使われています。この『プロメテウスの創造物』はベートーベンが2曲しか作らなかったバレエ音楽の一つで、バレエの改革を試みた斬新な曲でした。

当時のバレエは踊りがメインで演奏される曲はおまけ程度。そのためこのジャンルに力を入れた作曲家はあまりいませんでした。

そこに登場したベートーベン。彼はバレエを総合芸術作品として考え、音楽と踊り、両方に力を入れた作品を作ろうとしました。

そして作曲されたのがこの『プロメテウスの創造物』。ベートーベンはこの曲を大変気に入っていたようで、他の曲にもこの曲を流用しています。

Beethoven: Die Geschöpfe des Prometheus Finale, Op. 43

ニャンチーニ教授

本格的にバレエ音楽がジャンルとして認識されるようになったのは19世紀半ば以降。1841年にアドルフ・アダンが『ジゼル』を作曲してからじゃ

『英雄』を完成させた年は、ベートーベンにとってかなり重要な時期でした。この数年前に聴力が激減し、耳がほとんど聞こえなくなってしまったからです。

ベートーベンは次第に聞こえなくなっていく聴力に絶望し、一時自殺を考えるまでになってしまいました。ベートーベンは死ぬ覚悟で『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる遺書まで書いています。

人生に絶望したベートーベンでしたが、音楽家としての活動方針をかえることによって、再び人生に活路を見出すようになります。今までは作曲家とともに、ピアニストとしても活動していたのですが、それを作曲家一本に絞ったのです。作曲家なら耳が聞こえなくなってもできるからです。

そしてベートーベンは難聴を受け入れたあと、この交響曲第3番『英雄』を手始めに作曲しました。『英雄』以降は数々の名作を立て続けに発表し、この曲から始まった10年間は現在「傑作の森」と呼ばれています。

人生への絶望から、心機一転して作曲した作品なんですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

ベートーベンは『運命』や『田園』の交響曲を書き上げた後「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」と聞かれた時に、即座に「エロイカ交響曲です」と答えたといわれておる。この曲はベートーベンの中で大きな存在だったのじゃろうな