名曲解説:カリンニコフの交響曲第1番

このページではカリンニコフの『交響曲第1番ト短調』を解説していきます!

クラーニャ

『交響曲第1番ト短調』について学ぼう!

Kalinnikov: Symphony No. 1 — Glacier Symphony

『交響曲第1番ト短調』はバシリー・カリンニコフが1895年に完成させた交響曲です。カリンニコフは日本ではマイナーですが、本国ロシアでは名の知れた作曲家。交響曲第1番はそのカリンニコフの代表作です。

カリンニコフは1866年1月13日、ロシアのオリョールに生まれました。

父親は貧しい警察官で音楽とはほど遠い家庭にみえますが、カリンニコフは少年時代から音楽の才能を現し、14歳で地元の聖歌隊の指揮者を務めるほどになります。

ニャンチーニ教授

カリンニコフには弟がおったのじゃが、その弟も作曲家になっておる。両親の趣味か何かで、音楽に触れる機会があったのかもしれんな
そうでもないと、兄弟揃って作曲家にはならないですよねー

クラーニャ

モスクワ音楽院

モスクワ音楽院
セルゲイ・ラフマニノフやアレクサンドル・スクリャービンもここで学んだ

地元の学校を卒業後、カリンニコフは地元を出てモスクワ音楽院に進学します。

ですが、カリンニコフを生涯苦しめたある問題によって、音楽院を退学しなければならなくなります。

それが「貧困」です。

カリンニコフの生家は経済的に困窮しており、カリンニコフの学費もねん出できないほどでした。結局、カリンニコフは奨学金を借り、モスクワ楽友協会付属学校でファゴットと作曲を学ぶことになりました。

この間にも、カリンニコフは生活費を稼ぐために、劇場の楽団でファゴットやティンパニ、バイオリンを演奏するかたわら、写譜屋としても働きました。

※写譜屋:楽譜の書き起こし、清書などをする仕事

貧乏はつらいですね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

そしてそれが生涯にわたって続いたのが、いたたまれないのじゃよ

1892年、26歳のカリンニコフの人生に光明が射しこみます。ある偉大な作曲家に認められたのです。

その作曲家の名はピョートル・チャイコフスキー。

カリンニコフはチャイコフスキーの推薦を受け、マールイ劇場の指揮者に就任します。そして同年、モスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務めることになりました。

出世したカリンニコフは、これで生活に困らなくなると思ったでしょう。しかしそうはいきませんでした。

生活費を稼ぐために人一倍働いていたカリンニコフの体は、20代の半ばですでにボロボロだったのです。

そして以前からの無理がたたり、カリンニコフは結核を患ってしまいます。

カリンニコフは病気の療養のためクリミアへ向かうことになり、指揮者の仕事を辞めなければなりませんでした。

せっかくの仕事が…無理がたたって体を壊すのはわかるけど、20代半ばでそうなるって、そうとう無理していたってことですよね?

クラーニャ

ニャンチーニ教授

結核は感染しても必ず発病する病気ではないからな、健康で免疫力があれば、菌を吸い込んでも発病はしない。この年齢で結核にかかるということは、かなり免疫力が落ちていたのじゃろうな

カリンニコフは病気の療養のため、クリミア南部に移り住みます。

クリミア半島はロシア国内有数の保養地。黒海の北側に位置し、極寒のロシアにおいては珍しい温暖な土地です。

カリンニコフはクリミアの都市ヤルタに滞在し、ここで病の療養をしながら作曲活動を行いました。

カリンニコフが作曲した作品の大半は、この時期に作られたものです。

クリミアってこの前、ロシアがウクライナから奪った土地ですよね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

そうじゃ。ここは保養地だが、軍事的な戦略の要所でもあるから、やっかいな土地なのじゃよ。昔クリミア戦争なんてのもあったしな

カリンニコフの『交響曲第1番ト短調』は、このクリミア時代に作曲されました。

作曲されたのは1895年、クリミアに移ってから3年後のことです。

例にもれず、カリンニコフはこの時も貧乏でした。そこで金銭的な援助を得るために、ロシアを代表する作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフへ楽譜を送ったのですが、写譜のミスなどにより、演奏不能という評価を下されてしまいます。

ここでも不運に見舞われたカリンニコフでしたが、友人たちの協力もあり、1897年2月20日、初演が行われ大成功を収めることができました。

ですが、この初演にカリンニコフは立ち合いませんでした。病の悪化で劇場にすら行けなかったのです。

やっと評価されて、お金も入ってくる!って喜びたいけど…、フラグが立ちましたね

クラーニャ

ニャンチーニ教授

よく気づいたな。カリンニコフはこのあと、人生最大の不運に見舞われるのじゃ

カリンニコフの作曲活動はようやく実を結び始めます。

セルゲイ・ラフマニノフが楽譜出版社に働きかけたのがきっかけで、3つの歌曲が出版社に買い取られたのをかわきりに、交響曲第2番も売れたのです。

ようやくカリンニコフもお金に困ることなく生活ができるかと思われました。しかしそうはいきませんでした。

交響曲第1番の出版と35歳の誕生日を目前にした1901年1月11日、カリンニコフは志半ばで息を引き取りました。

ニャンチーニ教授

結局カリンニコフは、稼ぎがほとんどないまま人生を終えたのじゃ。まさに不遇の人生じゃったな
もう少し長く生きていれば…、結果は違ったかもしれませんね

クラーニャ

病と貧困に苦しめられた中で作曲された本作ですが、意外に曲調は明るいです。まるで未来に希望を感じているかのように聞こえます。

はたからみれば辛く報われない人生に見えますが、本人は違う風に人生をとらえていたのかもしれない、と考えさせられる作品です。

カリンニコフは当時どんな心境だったのかな?

クラーニャ

ニャンチーニ教授

もしかしたら人生をポジティブに捉えていたのかもしれんな